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マオリと交流 アイヌ高校生の夢|NHK 北海道のニュース - nhk.or.jp

ニュージーランドの先住民の言葉・マオリ語はかつて、いまのアイヌ語のような消滅の危機にありました。
その危機をどう乗り越えたのかを知るために、アイヌの若者たちが現地を訪れました。
その旅に、苫小牧支局の中尾絢一記者が密着しました。

【マオリの歓迎】
アイヌの高校生や大学生など9人が訪れたのは、ニュージーランド北部の町、ムルパラ。
ここは、住民のほとんどがマオリの町です。
一行を迎えたのは、地元の部族学校「テ・クラ・カウパパ・モテュハケ・オ・ターフィウアウ(日本語で「神聖な山の近くの学校」)」の生徒たち。
ハカ・ポーヒリと呼ばれる特別な踊りで、歓迎の気持ちを表しました。
アイヌの訪問団も歓迎のお返しに伝統の歌を披露したあと、マオリの若者たちと額と鼻をつける「ホンギ」(マオリの伝統的なあいさつ)で交流が始まりました。

【アイヌ語の伝承を阻んできたもの】
織田瑞希さんは、高校3年生。
生まれ育った平取町は、アイヌの人々が多く住み、アイヌ文化が深く息づいた町です。
しかし、そんな平取町でもアイヌの独自の言語、アイヌ語を話せる人は、ほとんどいないのが現状です。
背景にあるのは、明治政府が進めた同化政策です。
アイヌの人たちは、法律で「旧土人」と位置づけられ、学校では日本語での教育が強制されました。
アイヌの人たちへの差別意識も強まり、いまでも、アイヌであることを隠さざるを得ない人たちは少なくないと指摘されています。
織田さんにも自分がアイヌであることを言えない時期がありました。
6歳の頃から地元のアイヌ語教室でアイヌ語を学び、当初は、自分がアイヌであることに恥ずかしさを感じることはありませんでした。
しかし、小学5年生の時に引っ越しに伴って町内の別の小学校に転校。
まわりにアイヌ語教室に通っている子は1人もおらず、周囲にアイヌであると明らかにすることに、初めて抵抗を感じました。
織田さんの母の久美子さんも、みずからがアイヌと打ち明けることができなかった時期が長年、続いていました。
まわりからアイヌだと言われるのが嫌になり、平取町を出て東京で働いていた時期もありました。
久美子さんの祖母や曾祖母は、アイヌ語を話すことができましたが、教わったことはなかったといいます。
「アイヌであることを隠したい」という意識がアイヌ語の伝承を阻んでいたのです。

【マオリとの出会いが変えた】
織田瑞希さんに転機が訪れたのは、中学1年生のとき。
海外の先住民族との交流事業で訪れたニュージーランドでのマオリとの出会いでした。
目にしたのは、ハカ。
その踊りに圧倒的な迫力と民族としての一体感、そして「誰にも負けない」という気持ちを感じたといいます。
気づけば涙を流していました。
その後も、町の事業でニュージーランドを訪れたり、平取町にマオリの人たちが留学でやってきたりと交流は続きました。
そのなかで、織田さんは大きな夢を持つようになりました。
「アイヌの学校をつくる」という夢です。
アイヌ語の伝承が、自分たちの世代で途絶えてしまうのではないか。
自分の好きなアイヌ語を消滅させたくないという思いが強くなっていきました。

【マオリ語でマオリの歴史を語るということ】
アイヌ語を後世に伝え、残すためにどうすればいいか。
織田さんは、ムルパラの部族学校を訪れました。
80人が通う学校での授業の様子に驚かされました。
ムルパラの部族は、人口およそ3500とマオリの中では非常に小さなグループです。
それでも、生徒たちは、みずからの部族の歴史や語り継がれてきた物語を通して、マオリ語を学んでいたのです。
カリキュラムや教材は、先生たちが手作りしたものでした。
マオリの子どもたちは、みずからの民族の歴史をすらすらとマオリ語で話して見せます。
10歳の子どもでも自分の祖先の名前を10代まで遡って話すことができるのです。
織田さんは、マオリ語を話すこと、マオリの歴史を受け継ぐことの大切さを、子どもたちは理解していると感じました。
織田さんは、部族学校を設立したペム・バード校長に、学校を設立した理由について尋ねました。
バードさんは、幼少期からの過去を語ってくれました。
「私たちの親の世代は、学校でマオリ語を話すと、耳をつねられたり、たたかれたりしました。ですから私たちを育てるときに、同じ苦しみを味わって欲しくないと、マオリ語を教えようとしませんでした」とバードさんは話します。
背景には、19世紀、イギリスによる植民地政策がありました。
マオリの子どもたちは「原住民学校」で英語での教育を強いられました。
さらに第2次世界大戦以降、マオリの人たちが都市に住むようになり、英語中心の都市生活の中でマオリ語を話す人が急激に減っていきました。
1960年代には、マオリ語は消滅の危機に瀕していました。
しかし、1970年代、マオリの人たちによって、マオリ語を取り戻そうとする署名活動などが国内で盛んに行われるようになりました。
1980年代には、マオリの人たちがみずからの手でマオリ語で教える学校をつくり、マオリ語復興の土台になりました。
今では、マオリ語でほとんどの授業を行う学校の数は、国内で114校に上ります。
バードさんもみずからの部族のことばを失いたくないと、学校を設立しました。
部族の人数は決して多くはありませんが、家族や親戚を中心にマオリ語を教える人材を探し、オリジナルの教材をつくりました。
「私たちは多くのものを失いましたが、マオリ語が話されるためには努力が必要なのです。自分を強く信じて、自分の判断を信じなさい。私たちはいつでもあなたたちの味方だ」とバードさんは織田さんに伝えました。
アイヌと同じく、言語の消滅という危機を乗り越えたバードさんの言葉に織田さんは、背中を押されました。
織田さんは、「マオリとアイヌは同じような歴史をたどっている。学校設立のハードルは高いと思うけど、バードさんやマオリの人たちもアイヌの学校の設立を応援してくれている。私ももっと勉強して、アイヌの歴史を、アイヌの言葉を子どもたちに教えたい」と話し、来月、札幌の大学に進学してアイヌ語を専門的に学ぶことにしています。
来月、オープンするウポポイでは展示物の紹介などでアイヌ語が優先的に使われるなど、明るい動きも出てきています。
アイヌ文化やアイヌ語をどう後世に伝えていくか、私たちひとりひとりが考えるきっかけになればいいと思いました。

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March 27, 2020 at 05:13PM
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