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文化の盗用と寛容──多様性の時代に、クリエーションはどこに向かうのか? - VOGUE JAPAN

「KIMONO」騒動が教えてくれたこと。

2019年6月、豊富なサイズ展開で多様性を謳った自身の下着ブランドを「KIMONO」と名付けたキム・カーダシアンだが、批判を受けてブランド名を「SKIMS Solutionwear」に改名した。Photo: Best Image/ AFLO

2019年の夏、キム・カーダシアンが補正下着の新ブランドを“KIMONO”と名付けたことで、ちょっとした騒動が起こった。日本の「着物」と同一の言葉であり商標登録までされようとしていたからだ。結局この騒動は、ウェブ上で炎上したことを受け、キムがこの名前を取り下げることで事なきを得た。だがこの事件はカルチュラル・アプロプリエーション(文化的盗用)とは何かについて、日本の人びとに実感させるよい機会でもあった。この言葉は、特定の集団(主には民族)のアイデンティティを支える文化的意匠を、その集団以外の人びとが無断で利用した際の批判に使われる。

それにしてもアプロプリエーションという言葉は、いつから「盗用」と訳されるようになったのか。以前は「流用」として、先行作品に触発された創作方法を指す言葉として使われていた。もちろん先行作品に触発された創作物は、時には盗用騒動を起こすこともあったが、その場合でも創作者自身、そうした非難が生じることを予め想定していた場合が多く、それもあって「流用」という言葉が当てられていた。パロディやオマージュといえば想像がつくだろうか。作品の置かれているコンテキスト(文脈)をずらすことで先行作品に対する何らかの批評的態度を創作意図に込めたものだ。

ジョン・ガリアーノが試みた「脱文脈」。

ディオール時代のガリアーノは、世界の多様な伝統文化を取り入れた挑発的な作品を発表し絶賛されたが、ときに「文化の盗用」と批判されることもあった。写真は1998年秋冬クチュールコレクションより。 Photo: Guy Marineau / Condé Nast via Getty Images

おそらく「流用」から「盗用」への社会的意識の変化の中で最も煽りを受けたデザイナーといえばジョン・ガリアーノだろう。多様な民族の意匠に触発されてデザインされた彼の作品も、初期の90年代には歓迎されていたが2000年代以降、軋轢が増えている。

ガリアーノはかつて自分の試みは「再構築でも脱構築でもなく脱文脈だ」と発言し、特定のファッションが置かれている文脈を意図的に壊乱させるために、ある文化の意匠をそれとは異なる文化の文脈に接ぎ木することで新たな作品を創作していた。

彼が台頭した90年代とは、50年間続いた冷戦が終結し、インターネットが世界に紹介された頃だ。古い社会原理から解放され新たな社会を模索する時代風潮にガリアーノの作風はうまくマッチしていた。むしろ解放の推進者として彼の作品こそが新たな文脈を形成するものとして受け止められていた。

だがその脱文脈の手付きが歓迎されたのも、時代の移行に伴う高揚感があればこそだった。90年代とは確かに旧来の文脈からの解放、すなわち日常の縛りから自由になることが、人びとの生活の目標になった時代だった。

だが移行が落ち着いた2010年代には、解体された文脈も再び安定を求める。「オーセンティシティ(本物らしさ)」としてむしろ一定の権威性を人びとが求めるのが現代であり、その際、最も容易に調達可能な権威の源泉が、各地に伝わる土着の伝統文化だった。文化的盗用が注目されるのも、そのような時代の節目であればこそだ。デザイナーを含めて多くの人びとが再び、揺るぎない精神的基盤となる安定した文脈を求め始めている。かくして文化的意匠については、必ずどこかにその第一次所有者が存在するはずだと考える思考様式が広まった。所有者がいるのだから、許可なき利用は盗用なのだ。

ヴァージル・アブローの「3%アプローチ」。

そんな時代の風向きの変化にうまく立ち回っているのが、2010年代に頭角を現したヴァージル・アブローだ。1980年生まれで、幼少期からデジタルの洗礼を受けヒップホップに親しんできた彼は、現代の創作行為、とりわけ商業的創作行為が先行作品の縛りから完全には逃れることができないことをよく理解していた。そのため彼は、予め契約を交わした相手に対して先行作品、というよりも先行製品(プロダクト)の意匠について3%だけ変更を加える「3%アプローチ」を提唱している。先行製品と酷似しているのは、ブランド価値を損ねないためにも必要な処置であり、したがって新たなオリジナリティの刻印は3%に留めると予め予防線を張る。

アブローも属する現代の方法論とは、直接目につく意匠のレベルで民族衣装を流用したら、それは即、盗用として叩かれてしまうが、その意匠の背後に潜む創作技法や創作哲学を引用しメソッドとして移植する分にはなんら問題はないというものだ。むしろそのようなメソッドの移植に加えられるオリジナリティこそが現代のクリエイティビティなのである。

デザインに「最適解」はあるのか。

Photo: Courtesy of Nike

こうした創作姿勢には、多分にアブローが建築学を修めていたことも影響を与えているのだろう。建築、すなわち工学の世界では、デザインとは創作というよりも設計のことを指す。設計の世界では、さまざまな現実的制約条件から「正しい設計」の範囲は自ずから絞られる。つまり定番となる型が生じ、勢い設計の多くはその型をいかに他の制約を加味しつつ崩してみせるかに集約される。

これはパテント(特許)とコピーライト(著作権)の違いに近い。「普遍真理への接近vs.他でもない私の個性発露」の対立といえばよいか。ガリアーノを経てアブローに至り、ファッションの創作物はその製品的性格を増し、コピーライト的なものからパテント的なものに移りつつある。この変化は、ファッション産業のグローバル・コングロマリット化とも同調したものだ。グローバル経営において予測可能性を確保することは、説明責任の要件を満たすために不可欠だからだ。

ただしそれゆえ、工学的な正しいデザインへと導かれる可能性も高く、その結果生じるのが「ジェネリック・ファッション」とでも呼ぶべき、無味無臭の最適解としての意匠の浮上だ。MUJIに見られるような機能重視のミニマリスムなどまさにこれであり、そこでは均整の取れた合理性が美の基準のひとつとなる。

Photo: Chihiro Hirota

「ジェネリック」という形容は、アブローも敬愛する建築家レム・コールハースが、経済的合理性から世界の巨大都市が、空港やホテル、オフィスビル群にショッピングセンターなど、似たような姿に収斂していく様子を「ジェネリック・シティ」と名付けたことにならっている。

アブローが示したファッションへの建築的方法論の導入は、多様性が強調される今だからこその動きだろう。文化的来歴に神経質になる時代だからこそ、アブローはその地雷を回避し、文化としての歴史の痕跡を消去しようとする。

だが、社会の変化に対応して彼がとっている行動が、単に回避や迂回なのではなく、どこか今までとは異なる場所へと導いていると考えることはできないか。その時、多様性の所在もまた変わるはずだ。

「セサミストリート」が示す理想の世界。

Photo: Columbia Pictures / Everett Collection / amanaimages

多様性や寛容という言葉を聞くと、ついつい思い浮かべてしまう言葉がある。“Respect Each Other!”だ。2019年の春、最終シーズンを迎えたTVドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」のトレーラーの中で、「セサミストリート」に登場する赤いマペットであるエルモが述べた言葉だ。

最終シーズンまで骨肉の争いをやめなかったラニスター家のサーセイとティリオンの姉弟がテーブルを挟んでいがみ合っている部屋に、甲冑をつけてガチャガチャと入ってきたエルモが、よいしょっとばかりにテーブル席に上り、二人に向けて発したものだ。「いい加減、いがみ合うのはやめて、お互いに相手の立場を尊重して歩み寄りなさい!」ということだった。

このエルモの一喝が笑いを誘うと同時に説得力をもつのは、彼が登場する「セサミストリート」という番組では、人間だけでなくマペットを含めた多様な存在が集うストリート(街角)で、互いの多様な背景に気遣いながら生活が営まれているからだ。白人や黒人によらず老若男女の人間に加えて、エルモの他にもビッグバードやクッキーモンスター、カウント伯爵など多彩なマペットが登場する。

「セサミストリート」は、2019年で50周年を迎えた長寿番組で、第1回の放送は1969年 11月10日のことだった。対抗文化、公民権運動、アポロ月面着陸、等々、アメリカ史を揺るがす大事件が続出した60年代、その最後の年に始まった。当時理想とされた「多様な人びととの共生」というテーマが番組にも影響を与えていた。そもそもこの番組の狙いは、子どもに言葉を教えることだった。いさかいをなくすには、互いに言葉を交わす=コミュニケートすることが出発点なのだ。

「セサミストリート」とは、そのようなダイバーシティを尊ぶ番組であり、50年も続いた分、すでにアメリカ文化の基層の一つをなしている。近年においても2017年に自閉症の女の子ジュリアを登場させ、賛否両論を巻きおこした。今でもインクルージョンを地で行く番組なのだ。

そうした政治性を帯びた番組であるため、今までエルモは何度かホワイトハウスを訪れ、歴代のファーストレディと共演してきた。2010年代にダイバーシティという主題を世界に広めたミシェル・オバマもそのひとりだ。

ミシェル・オバマとチョップト・サラダの夢。

Photo: UPI / amanaimages

彼女は、多様な人びとが自律的に生活できる世界を理想としていた。だが、いつの間にかアメリカの呼称は、メルティング・ポットからサラダ・ボウルへと変わり、人間どうしの「交わり」よりも「棲み分け」が当然視される社会になった。しかし、人びとの融和(ユナイト)を望むなら、フュージョンやハイブリッドの道を求めてもよかった。チョップト・サラダとでも呼ぶべき社会を目指すこともできたはずなのだ。チョップ(刻む)することで形は変わるかもしれないが、互いに混じり合うことが可能になる。棲み分けを乗り越えることができる。

ミシェルはファーストレディ時代、ホワイトハウスに自前のガーデンを作り、地産地消を旨とする食育の重要性を訴えた。それは生活の基本となる食から足もとを固めることの大切さを考えてのことだ。そうして自ら体験した黒人コミュニティにある良質の共存の論理や倫理を広めようとした。有名な「敵が下品に攻めてきても、こちらは気高く応じる」という彼女の言葉に表れているように、「黒人×女性」という生まれから発した二重の気高さを纏った人なのだ。

ミシェルは、自伝のタイトルを“Becoming”(邦題『マイ・ストーリー』)、「何かに転じること=変成」と名付けている。彼女自身を含め、誰もが常に変化のさなかにあり何ものかに「なりつつある(ビカミング)」ことが人生の真実だと見ているからだ。このビカミングに向かう意志を支えるのが気高さなのだ。

『トイ・ストーリー』に学ぶ「寛容」。

1995年に公開された『トイ・ストーリー』の最新作。ウッディやバズ・ライトイヤーなどのおもちゃたちが繰り広げる愛と友情の冒険物語で、人間社会に対する示唆に富んだ名作。

ここで、いささか唐突だが、そんなビカミングの姿勢がもたらす世界を知るヒントとなるのが、映画『トイ・ストーリー4』ではなかろうか。9年ぶりに製作された『トイ・ストーリー』の新作だ。

この映画の何がすごいかといえば、主人公のカウボーイ人形ウッディを筆頭に、トイ=おもちゃという存在には「標準」なる概念が一切ないため、登場するキャラクター(「人間」ではなく「人格=人間性」としてのキャラクター)のサイズもまちまちで、それゆえ縮尺がおかしいと感じる場面が頻出する。だがそれでも、異なる相貌のトイたちは互いに信頼し合い、愛を語り合い、ときには言葉の通じない存在にも手を差し伸べる。モノにも心が宿る世界が描かれる。

この様子は、実写映像と見まごうほど精緻にCGで作成された背景映像のリアルさもあいまって、普段は人間が気がつかない「人ならざるものの世界」の存在を想像させる。モノと共存する世界。それはサステナブルという主題とも緩やかに繋がるものだ。

第1作の『トイ・ストーリー』は、1995年にフルCGアニメーションによる長編映画として初めて劇場公開された記念碑的作品だ。第4作はその第1作を見て育った世代が20年後に製作した。デジタルネイティブの世代による作品だ。そこには50年前に始まった「セサミストリート」とは異なる感性が反映されていると捉えるのが自然だろう。エルモの言う文化間の「尊重(リスペクト)」から、ウッディたちトイ=人外存在への「寛容(トレランス)」へ。『トイ・ストーリー4』はそうした時代風潮の旋回を反映している。

もしかしたら『トイ・ストーリー4』という物語は、ファッションの細部にテクノロジーが組み込まれた近未来を示唆しているのかもしれない。テクノロジーを〈ウェアラブル〉として身に纏うことで、私たちは現実世界にいながらトイのようなアバターに変身する。そのとき、ミシェルの言う「ビカミング」が、異質な何者かになることにもひるまない生き方(スタイル)へのヒントを与えてくれる気がする。自分も今、目の前にいる異質な存在にいつか変貌する。「文化の多様性」から「存在の多様性」へ。テクノロジーの補助を受け、遠からず私たちもモノの一部になるのかもしれない。そのとき何を纏うのか。

そのような変成(ビカミング)の可能性に満ちた多様性が2020年代には控えている。

Profile
池田純一

コンサルタント、デザイン・シンカー。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)、早稲田大学大学院理工学研究科(情報数理工学)修了。電通総研、電通を経てFERMAT Inc.を設立。『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』(青土社)など著書多数。

Text: Junichi Ikeda Editor: Maya Nago

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February 20, 2020 at 04:00PM
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