――著書では、世界にはルールやしきたりに厳格な「タイト文化」の国と、そうでもない「ルーズ文化」の国があると指摘されています。
私は世界中を旅して、そのコントラストに気づきました。シンガポールにいけば、とてもたくさんの罰則があります。ドイツでは人々がとても我慢強く並んでいます。でも私が生まれ育ったニューヨークでは、人々は信号を無視して、子どもの手を引いて、道路を渡っていきます。世界を見渡せば、こうした違いに気づくことができます。
しかし私が手がけてきたのは、その違いを最高に科学的な手法を使って分析し、理解することです。ですから調査もしますし、実験もします。ニューロサイエンスのテクニックも使いますし、コンピューターサイエンティストとも協力しています。非常に広い観点から、文化の構造を理解しようとしてきました。
その結果、一般論として国々をタイトとルーズに分類することができました。人間の個性を内向的や外向的と分類することができるように、国々も厳格な規範を持っているのか、寛容な規範を持っているのかで分類できるということです。日本やシンガポール、オーストリア、ドイツといった国々はタイトな傾向にありました。ブラジルやオランダ、アメリカ、ニュージーランドといった国々はよりルーズでしょう。
申し上げておきたいのは、すべての文化は別の側面も持っているということです。たとえば日本はタイト文化ですが、ルーズな側面はあります。それでも興味深いのは、ルーズだと思われる場面にもタイトさが顔をだすことです。たとえばカラオケに行くときですら、それは普段のタイトさから逃れるためのものだと思うのですが、そこには組織だった進め方があるんです。
■自然災害や人口密度という「脅威」
――そしてその違いの原因に「脅威」をあげていますね。
調査では約30の国にかかわってもらいました。歴史的なデータも集めましたし、環境についても調べました。そして私の仮説は、タイトな文化の国々は一般的に、常に集団的な脅威にさらされていた、というものです。
実際にサンプルとなった国々では、多くの自然災害や潜在的な飢饉、あるいは潜在的な人災、つまりその領土上での紛争などを経験していました。あるいは、高い人口密度もそうです。こうしたものに、人間は個人で立ち向かうことができません。つまり、人々は他の何千の人たちと協力できるようになる必要があったのです。これが私が環境的、人間的脅威と呼んでいるものなのです。
こうした脅威はランダムではありません。ある国では定期的にこうした脅威を経験していますが、そうでもない国もあるのです。そして、私たちのデータによれば、日本は脅威に数多くさらされた国の上位にきます。
――日本で自然災害に立ち向かうことを考えると、タイトさが必要だと。
もしこうした環境で、人々が非常に悪質に振る舞ったらどうなるでしょうか。完全なカオスになるでしょう。実は(ルーズとされる)米国の中でも、非常に多くの脅威を経験した組織には同じようなことが言えるのです。人々は、生き残るためにより強力なルールを必要とするのです。
それに脅威だけではありません。文化の同一性も文化のタイトさに貢献していますし、動ける範囲が狭いということも関係しています。日本では、米国と違って、人々があちこちに飛び歩くことができません。こうした国は、タイトな文化を持つ傾向にあります。
ただし、例外についても語っておかなくてはいけません。非常に興味深い例外は、脅威は経験しているのに文化はルーズなイスラエルです。そうした例外はありますが、大部分では非常にうまく説明がつきます。
――ただ、私たちはタイトな文化に一定のよい面もあるのだと感じます。
秩序と開放性には、トレードオフがあります。日本は私たちのデータでも、非常に犯罪が少ないです。一方で監視の目があり、画一性があり、同調性があります。たとえば街中の時計をしらべると、多くが同時刻を指しています。これは同調性と秩序の度合いを示すひとつの指標です。もうひとつ日本についていうと、清潔さという強みがありますね。非常に秩序だっていると思います。私は日本が大好きです。
でも逆の側面も考えてみましょう。秩序だっているということは、自制心が働くということです。それは潜在的な罰を気にして自制するということです。幼いころから、そうした自制心を持っています。おかげで借金は少ないし、アルコール中毒も少ないですね。
逆に米国はまったく秩序だっていません。多くの混乱に悩まされているのです。犯罪も多い、同調性は少ない、自制心が欠けることによる問題は多いのです。ペットの肥満について調べたことがありますが、そうしたところにも差が出ます。ルーズ文化の国では肥満が多いのです。しかしルーズ文化の国には、開放性があります。違っていること、ほかの人たちに寛容です。そして、より創造性が高く、変化に対して柔軟です。
■入れ墨ペイントの人が助けを求めたら?
――米国を訪れた経験からすると、分かるような気がします。
私たちの実験でこういうものがあります。顔にペイントをし、入れ墨をし、鼻ピアスをした人に、通りで助けを求めてもらうのです。タイト文化の国々では、一般的には人助けに冷たいということはないのですが、見た目が変わっているこうした人たちにはあまり手をさしのべなかったのです。
彼らは、社会的秩序を脅かす存在だと捉えられていたのです。つまりタイトさというのは、それが行き過ぎればこうした開放性の問題に向き合うことになります。それがトレードオフなのです。
――とはいえ、こうした対応は人によっても違うように思います。
もちろんです。地域によっても違いますね。日本でも、北海道は違う、とかそういうことがあるでしょうし、東京でも、一部の地域ではルーズでしょう。こうしたところは、どの国にもみることができるものです。あるいは組織によっても違います。私は学者で、ルーズな方に属していると思いますが、夫は弁護士でタイトです。私のウェブサイト(英語)には、性格がタイトかルーズかを判断するクイズも設けています。
ですから、決まった偏見(ステレオタイプ)を持つべきではありません。それでも、やはり一般的な傾向は見て取れるのです。しかもこれはいまの時代に限った話ではありません。いま進めている研究では、歴史的にも、脅威を経験すると文化がよりタイトになっていたことが分かってきています。
あるいは実験を通して、人々の中にテロや自然災害といった脅威を思い起こさせると、タイトさが増すことが分かっています。それでも、文化の影響は根強く、そう簡単には変化しません。特によりルーズになっていくのは難しいようです。
――トランプ大統領などの政治家についても、タイト&ルーズの面から分析されていますね。
彼らはよりタイトな体制をつくることを訴え、支持を集めました。それはなぜかと言えば、実際にある人々が脅威にさらされていると感じているからです。実際に脅威を感じているから、より強いリーダーを求めるのです。
――それ自体は悪いことには思えません。
私が問題だと思うのは、政治家がフェイクの脅威を訴えたり、あるいは脅威を大げさに語ったりすることです。そうして不要な脅威をあおることでなにが起きるか。米国で起きているのは、「違った」ように見える人々に対する偏見や差別です。そして同じく、これは米国の創造性にも影響しているように思います。タイトにしろ、ルーズにしろ、極端な方向に向かうのには大きな問題があるのです。
タイトさを求める人々には、客観的な脅威があると言えます。それはおそらくAI革命とか、グローバリゼーションとかそういったものでしょう。ですから彼らを「クレージー」だとか「レイシスト」だとか言って批判するのは、適当ではありません。彼らの脅威に目を向け、心を寄せ、それに対応すべきなのです。
しかし、政治家は人気を集めるために移民問題などのフェイクの脅威をあおっているのです。
■タイトもルーズも、組織には必要な存在
――日本政府はこれから外国人をさらに受け入れようとしています。そのときにも、こうした文化の違いが問題になるように思います。
まず日本のようにタイトな文化の国は、こうだと決めた方向には動いていけると思います。そのうえでいくつか課題があるでしょう。ひとつは、違ったグループ間での、意味のある相互交流が必要だということです。
しばしば起こるのは、見た目や行動が少し違って見える人たちに対し、極端な偏見を持つことです。しかし両者の間に意味のある相互交流があると、人は「自分たちと同じところがある」とか「自分たちの文化になじもうとしている」と考えるようになるのです。人々は思いやりを持つようになり、移り住むこともより簡単になっていきます。
タイトな人も、ルーズな人も、組織にはどちらも必要なのです。たとえば会社を考えてみましょうか。創造性を高めるためには、クレージーなアイデアを出すことも必要です。こうしたアイデアはルーズさから生まれます。一方で、こうしたアイデアを実践に移すにはタイトさが必要になります。ですから、組織のリーダーは両方が互いの弱点を補い合っていること、そして同じゴールをめざしていることを理解させる必要があるのです。
――しかし人はそのままではなかなか相互交流をしないどころか、それぞれ別に住むようになる気もします。
たしかに人間はより同質な人といるほど、安全だと感じるものです。そして変わっていくことに対しては恐れを持ちます。ですから、リーダーはその恐れに対応する必要があります。
相互交流の力を示す実験の例をひとつご紹介しましょう。米国人とパキスタン人の例です。当初は、両方のグループが互いを嫌っていましたし、深刻なステレオタイプを抱いていました。パキスタン人は一日中モスクにいるとか、スポーツをしたり、ダンスをしたりはしないといったものです。
そこで私たちは、お互いの日記を読んでもらったのです。そこに生きた感情があり、生活の現実がありました。それにふれたとき、お互いの人たちが共通点を見いだすことができるようになり、互いを理解するようになったのです。
もちろん彼らには文化の違いがあります。それでも、彼らはそれまでの見方が極端だったと気づきました。パキスタンの人たちは、米国人はルーズだが、思ったほどではなかったと考えたし、米国人はその逆のように考えたのです。
ですから、こうした互いのことを知ることができる場を用意することが、何よりも大切なのです。文化がどのように多様で、なぜ多様なのかを理解できれば、私たちは他の文化に思いやり(エンパシー)を持つことができます。他のグループに対してより寛容になれるのです。
Michele Gelfand 米国ニューヨーク出身。イリノイ大院修了。2007年からメリーランド大教授。2011年に33の国・地域の文化の違いに関する論文を「サイエンス」誌に発表し、注目された。著書に「Rule Makers, Rule Breakers:How Tight and Loose Cultures Wire the World」(Scribner,2018)
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